先生のことは気にしない
いや、ほんと「先生に申し訳ない」って思っちゃうんですよね。
多分これ日本人のいいところでもあるんでしょうが、自分の権利よりも周りに迷惑をかけていないかどうかを先に気にしてしまう。
これまでの経験からいくと「ご迷惑をおかけしてないか」って考えてしまう人はおかけしてないことが多いです。
「ご迷惑をかけても平気」または「かけてることにすら気づかない」人は最初からそんなこと考えないです。
なので、ちょくちょく出てくる「約束したけど学校に行けない」時もそれほど気に病むことはありません。
先生は暑さ寒さのない快適な場所で他のことしてますから。
もちろん「すみませんっっ」「ごめんなさいっっ」はあったほうがいいですが、それ以上に悩んで自分や子どもを追い込むことはないです。
大丈夫、向こうは給料もらってますし。
「他人は思い通りにならない」ことを知るのも教育者として必要なことです。
「発達障害」の言葉のインパクト
発達障害って言葉、「障害」が入っているだけですごいインパクトがありますよね。でも「今の日本社会」に合っていないだけで劣っているというわけでは全然ないと思うんです。
今の日本社会で必要な能力って、
・周りに合わせる
・理不尽を飲みこむ
・妥協する
なんです。
「真面目にやる」「一生懸命やる」っていう素晴らしい能力も「テキトー」と合わせて使えないと最後は自分自身を傷つけちゃう。
学校って実はダブルスタンダードです。
「真剣に一生懸命、丁寧にやりなさい」と「テキトーでいいからとにかく仕上げなさい」が普通に両立します。
うちの子どもはまずここでつまづきました。
テキトーに受け流せないんです。
「帰りの会の発表」にしろ「図工の課題」にしろ、正解がないことを聞かれるとき、テキトー耐性がない子どもは先に進めません。
ここでは「なんでもいいからやる」のが正解なのですが、そこにたどりつけない。なぜかと言うと先生は反対のことを言ってるから。
「自分の話したいことを話しなさい」
「自分の表現したいものを表現しなさい」
もちろん「時間ないから、何でもいいから」と言う先生もいますが、これもまた「最初の話と違うじゃん」「どっちが正しいの?」ということでやっぱり前に進めない。
私自身がすごくテキトーなタイプなので、最初はここが理解できませんでした。
「いい加減で妥協できる」のも実はスキルなんですね。このスキルが簡単に身につく人もいればそうでない人もいる。それだけのことなんです。
理解してくれる先生ならいいのですが、先生って基本「学校が好き」な人がなるから、もともとみんな学校特性に優れてるんですよね。妥協もいい加減もできて当たり前。初期装備でついてるんです。だからなかなか理解できない。
学んでくれる先生ならいいのですが、基本先生は教わるのが苦手。もし先生ガチャに外れてしまって、まったく理解できずにただ怒る先生に当たってしまった場合は、自分だけでも子どもを守ってあげましょう。
課題なんざやらなくても死にはしないし、実際誰にも迷惑かけてない。
「迷惑だ」と言う人がいたら具体的にどれだけの被害を被ったのか聞いてみるといいです。クラスごとの課題、班ごとの課題の時は一人やらないと他の人の負担が増えるのかもしれませんが、そこで別の方法を考えないっていうのも怠慢です。最善解は状況に応じて違うんだから、それを考えることこそ教育だと私は思います。
ママ友って大事?
ママ友はいてもいいし、いなくてもいいと考えてます。それは子どもが不登校でもそうでなくても。
子どもの頃に言われた「お友達をたくさん作りましょう」に大人になっても縛られている人は意外と多く、そういうタイプは子どもにも友達がいないと天地が終わったかのように悲しんでしまいます。
これは子どもにとっても辛い。
もちろんいればラッキーだけど、いなくてもそんなに困らない。
のび太にとってのドラえもんレベルに重要と思いがちだけど、実際は出木杉程度。たまに役に立つけど、比べてしまって落ち込むことの方が多かったり。
そして他人に「友達がいない」と思われたらどうしようと考えてしまう人も多いですよね。でもそれはこそこそしちゃうから。そうすると「はぐれ羊」感満載で周りの目も集中する。
普通になんでもなく過ごしていると勝手に周りが「おお、あやつは狼!」と思ってくれるもんです。
すみません、話がちょっとそれてしまいました。
ここで言いたいのは不登校になった後のママ友問題です。
不登校児童のママに対しての周囲の反応は3つに分かれます。
腫れ物に触るように接して来る人。
心から心配してくれる人。
ただ話題として知りたいって人。
でもみんな言うことは同じなんです。
「大丈夫、すぐに学校行けるようになるよ」と。
心から善意でおっしゃってくれるのはわかります。
それまで「学校?そんなの行かなくても死にゃあしねーぜ」と思っていた心が揺らぐんですよ、この一言で。
期待にこたえたいと思ってしまう気持ちもあるし、やっぱり学校は行くものなんだっていう思いもあるし。子どもの頃から思いこまされている「常識」ってホント簡単には覆りません。「枕を踏んではいけない」くらいの強さで「学校は行かなきゃいけない」って思い込んでるんですよねー。
そこで「いや、学校なんて別に行かなくてもいいと思うんだけど」と言うのはかなり勇気がいるし、なんとなく「負け惜しみ感」も出てしまう。
でもどんな時でも使える言葉があるんです。それが、
「心配してくれてありがとう」
相手が善意だろうが悪意だろうが、これを言っておけば大丈夫。
根掘り葉掘り聞きたい相手を黙らせるのにも使えるし、本気で心配してくれる人にも使えるし。
内心どんなに焦っていても、とにかく余裕の笑顔で。
「逆転裁判」で成歩堂龍一が言ってた「ピンチの時ほど不敵に微笑むべき」はここで使うべきです。
学校情報がほしい人にとってはママ友は貴重な情報源なので、「うちの子は学校に通えてる、よかったー」という相手のプライドをくすぐりつつ、不敵に笑う。
「心配してくれてありがとう。〇〇ちゃんは毎日学校に通えてて本当に偉いわー。うちも自分のペースでがんばって行こうっと」
余裕の微笑み。
このヒット&アウェーができるようになるととっても楽になります。
学校は「正義」じゃない!
学校は「正義」じゃありません。
もちろん「義務」でも「目的」でもありません。
「学校に通うこと」が目的だって誤解してるのは先生にも多いですよね。
でも目的は「知識を得る」ことであって「毎日通う」ことじゃありません!
保健室登校はOKで、家で勉強してるのはダメって、よく考えたら矛盾してるのわかりそうなものなのに、そういうこという人って考えてないんでしょうね。
もちろん保健室に行く子どもはすごくよくがんばってると思います。
でも「学校来ればそれでいい」って本当にそうですか?
親が「登校上等」の考えを持ってると「正義」の罠に陥りがちです。
自分が「正義」だと思ってしまうと、それに反対するものがすべて「悪」になってしまうので、子どもに必要以上に強く出がちです。
だって「正義」を振りかざすのは気持ちいいから。
「学校に行く」のは正義。それを実行させる自分こそ「正義」。
でもねえ、「学校に行かない」のは悪でもなんでもないです。
誰を傷つけているわけでもない。傷つけているとしたら親と先生のプライドくらいです。
そして「自分は我慢できても先生に申し訳ない!!」って思うタイプの方もいらっしゃいますが、別にそれほど迷惑でもないっスよ。
「今日、行きます」って言った日に行かないと、雪の中傘もささずに登校を待ち続ける先生を裏切ったような気持ちになりますが、先生教室でぬくぬくして半分忘れてますから。これホント。
先生との約束を守ろうとして大切な子どもを傷つけてしまうのは、本当にやっちゃいけないことです。これ、実は私も何度もやっちゃいました。
ついつい「約束を守りたい!!」を思っちゃうんですよね。「約束を守ること」はいいことだから。
でも絶対的に正しいと思ってしまうのは「バカ」なんだと今ならわかります。他に重要なものがあったら「約束は破る」べきなんです。正義ってあくまで相対的なもので、「絶対」って考えてしまうところに大きな落とし穴がある。
私もそこに気がつくまでに随分子どもを傷つけちゃいました。
でも自分のプライドって傷つけられても実はどうってことないし、本当はそんなことで傷つくようなものでもないと。